何を隠そう、私にとってNo. 1インフルエンサーは、岡田斗司夫(さん)だ。
私はドワンゴやニコニコ動画的な文化は一切経験していないので、彼がそのあたりをメインフィールドとしていた時期は知らないが、それでも結構昔から彼のことを知っていた自信はある。
ホリエモンでも、ひろゆきでも、成田祐輔でもない。
オタキングこそ、いまだに私淑してやまない人物である。
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そういえば、成田祐輔はブレイクした時期、すこし興味をひかれた。
彼の発言ではなく、スタイルにである。
成田祐輔について一言、私の印象を書いておきたい(他にこのように語られていることを見たことがないので)。
世の中には中二病という言葉があるが、それ以外にも大学院の2年目ぐらいに陥りやすい院二病というものもあると思っている。マイナーな論文でも誇大妄想的に評価したり、本質重視の独善的な論争スタイルをとり、ゼミ臭がプンプンする課題設定をするような季節病だ。
はじめて彼を見たころ、成田氏には、ものすごい院二病を感じた。ああ懐かしい、院二時代の万能感、あとで見るとこっ恥ずかしいこの感じ!である。
のちに、それは彼の独特のユーモアの一部であり、相手に合わせてあえてオフビート、あるいは斜めの角度から言って、アテンションを引くような、あくまでもスタイルなのだと分かった。ここで重要なことであるが、真に特徴的なのは、彼の発言の内容自体よりも、スタイルである。
しかも、ある種の天才的なスタイルの編集人である。実際の話の内容は、データを見て正直になろうよ、意味ないことに意味あるフリをするのはやめようよ、という常識的なことである。あくまで個人的にであるが、ああゆう世を捨てた達観者を気取るスタイルに「インフルエンス」されたくない自分に気が付いてから、成田氏の動画は見ないようにしている。
ここで気が付いたのであるが、成田氏は、あの(全盛期の)浅田彰にそっくりだ。
- 本業は経済学のはずが、それ以外の分野で評価されがち。
- マスコミに一気に持ち上げられてちやほやされる。頭の悪い普通の人を見下すようなスタイルが痛快で、なにかアクロバティックにマスコミに評価される。
- 経済学の院生がゼミで語るような複雑な経済論・社会論を、独特のユーモアによってエンタメっぽく語れてしまう。
- ある意味で絶対的なポジションを取らない。浅田はポストモダンなマルクス主義、成田はデータサイエンス主義っぽい立場をとるが、議論を有利に運びやすい方便と割り切っているようにもみえる。本当に言いたいことが何か、アイロニーでオーバーラップされるのでよくわからないこともある。浅田が(ポストモダンなマルクス主義者ではなく)実は正統なモダニストであり、成田が(アルゴリズム的社会の先に見据えているのは)実は学問的な権威主義だったとしたらどうだろう?案外間違っていないと睨んでいる。
- ハイアートへのセンスがやたら高い。ただし、アヴァンギャルド芸術のややこしい論争をものともせずキレキレの言説を繰り出すようなパワーは浅田が一歩も二歩も上手だった。その意味で成田は国内の「アイドルとかアーティスト」相手にお茶を濁しているような印象もある(そういう動画は最後まで見るに堪えない)。
- そして、二人とも、ポエムに手を出している(笑)。
私は浅田彰は遅れてきて読んだのでリアルタイムではないが、なんとも似ているではないだろうか。余談でした。
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本題のオタキングである。彼が提唱した理論(本質論)のなかで、もっとも素晴らしいものが3つあるので、ここで紹介したい。(私が知らないだけで、もっとあるかもしれない。)
- シャーデンフロイデ理論と、オーバーロード仮説
- モチベーションに基づく人格の4類型
- 笑い、怒り、感動の本質
この3つは素晴らしすぎる。美しい話なのである。
まず、1については、欧米的な、あるいはTED的な、アジェンダ設定文化というものに少々食傷気味な私にとっては、とても腑に落ちる話であった。
2については、おそらく岡田斗司夫ファンの周りでは有名だと思う理論なので、ここでは触れない。
3については、あえて、すこし話を拡張したい。
もともとオタキングの提唱しているのは、「笑い」=「攻撃性の代償行為」である。
ここで少し前置きとして、もともと仏教的な人間観が基底にあることを押さえておこう。「私」とは、西洋的な自立した個人としての「人間」ではない。私とは、連続的な入力情報に対して、ひとつの単位として対応するためテンプレを集めた不完全なまとまりである。
このようなモチーフは、たとえば、オタキングが政治的な問題を語る際にも垣間見える。「私のなかで1割は〇〇を支持する、別の1割は△△を支持する」といった具合だ。これはオーバーロード仮説とも通底している。
さて人間は、特定の強い信号に対して、それをそのまま受け止めて記憶に保存したり、出力側に発露(行動)するのではなく、変換するパターンをいくつか身に備えてきた。そのひとつが「笑い」である。
笑いは、攻撃性を出すとき、あるいは攻撃性を受けたとき、それを別の感情に変換したものであるというのがオタキングの主張である。たとえば攻撃を受けたとき、攻撃を受けた人を見たとき、攻撃をしたいとき、などの状況で、「攻撃」という本来厄介で、精神的にも負荷の強い情報を、もっとソフトな感情に置き換えるのである。
それゆえ「地獄には爆笑があふれ、天国には微笑しかない」のである。
オタキングは、こうした「本質論」について、しばしばハインラインのSF小説を出典にしているところが、非常に面白い。そもそも、オタキングはガイナックスの初期の時期に「感動」の本質について探求していた時期があり、そこからさまざまな発見をしたという。
では、その感動とは何か。
オタキングによれば、感動は、罪悪感であるという。人間は罪悪感を感じたときに、それを背負うのではなく、「感動」という感情に変換させることによって、「私」としての精神の一体性を保つという。そして、そこに物語としての整合性が生まれるのだ。
これもまた面白い主張だ。だが、私は少しここで、自説を入れたい。それがこちら。
- 笑いとは、攻撃的な感情を変換させたものである。
- 怒りとは、無力さの感情を変換させたものである。
- 感動とは、犠牲に対する感情を変換させたものである。
感動のところだけ、私は「罪悪感」ではなく「犠牲」と置き換えた。オタキングの言う「感動」は、もちろん罪悪感を含むが、「犠牲」のほうがもう少しコアをついていると思う。いかがだろうか。
オタキングへのリスペクトを込めて、少し書いてみた。