2024-11-25

さようなら、プリンス

 


ありがとう...。

改めて思い返してみれば、平地でビッグギアを踏むときの独特のウイップ感がBMCにはあった。逆にしっかりとヒルクライムしたいときは、プリンスのほうがラクだった。

私は再びロードバイクを再開する日は来るだろうか、と手のひらを見ながら問いかける。

2024-10-15

The Otaking









何を隠そう、私にとってNo. 1インフルエンサーは、岡田斗司夫(さん)だ。

私はドワンゴやニコニコ動画的な文化は一切経験していないので、彼がそのあたりをメインフィールドとしていた時期は知らないが、それでも結構昔から彼のことを知っていた自信はある。

ホリエモンでも、ひろゆきでも、成田祐輔でもない。
オタキングこそ、いまだに私淑してやまない人物である。


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そういえば、成田祐輔はブレイクした時期、すこし興味をひかれた。
彼の発言ではなく、スタイルにである。

成田祐輔について一言、私の印象を書いておきたい(他にこのように語られていることを見たことがないので)。

世の中には中二病という言葉があるが、それ以外にも大学院の2年目ぐらいに陥りやすい院二病というものもあると思っている。マイナーな論文でも誇大妄想的に評価したり、本質重視の独善的な論争スタイルをとり、ゼミ臭がプンプンする課題設定をするような季節病だ。

はじめて彼を見たころ、成田氏には、ものすごい院二病を感じた。ああ懐かしい、院二時代の万能感、あとで見るとこっ恥ずかしいこの感じ!である。

のちに、それは彼の独特のユーモアの一部であり、相手に合わせてあえてオフビート、あるいは斜めの角度から言って、アテンションを引くような、あくまでもスタイルなのだと分かった。ここで重要なことであるが、真に特徴的なのは、彼の発言の内容自体よりも、スタイルである。

しかも、ある種の天才的なスタイルの編集人である。実際の話の内容は、データを見て正直になろうよ、意味ないことに意味あるフリをするのはやめようよ、という常識的なことである。あくまで個人的にであるが、ああゆう世を捨てた達観者を気取るスタイルに「インフルエンス」されたくない自分に気が付いてから、成田氏の動画は見ないようにしている。

ここで気が付いたのであるが、成田氏は、あの(全盛期の)浅田彰にそっくりだ。

  • 本業は経済学のはずが、それ以外の分野で評価されがち。
  • マスコミに一気に持ち上げられてちやほやされる。頭の悪い普通の人を見下すようなスタイルが痛快で、なにかアクロバティックにマスコミに評価される。
  • 経済学の院生がゼミで語るような複雑な経済論・社会論を、独特のユーモアによってエンタメっぽく語れてしまう。
  • ある意味で絶対的なポジションを取らない。浅田はポストモダンなマルクス主義、成田はデータサイエンス主義っぽい立場をとるが、議論を有利に運びやすい方便と割り切っているようにもみえる。本当に言いたいことが何か、アイロニーでオーバーラップされるのでよくわからないこともある。浅田が(ポストモダンなマルクス主義者ではなく)実は正統なモダニストであり、成田が(アルゴリズム的社会の先に見据えているのは)実は学問的な権威主義だったとしたらどうだろう?案外間違っていないと睨んでいる。
  • ハイアートへのセンスがやたら高い。ただし、アヴァンギャルド芸術のややこしい論争をものともせずキレキレの言説を繰り出すようなパワーは浅田が一歩も二歩も上手だった。その意味で成田は国内の「アイドルとかアーティスト」相手にお茶を濁しているような印象もある(そういう動画は最後まで見るに堪えない)。
  • そして、二人とも、ポエムに手を出している(笑)。

私は浅田彰は遅れてきて読んだのでリアルタイムではないが、なんとも似ているではないだろうか。余談でした。


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本題のオタキングである。彼が提唱した理論(本質論)のなかで、もっとも素晴らしいものが3つあるので、ここで紹介したい。(私が知らないだけで、もっとあるかもしれない。)

  1. シャーデンフロイデ理論と、オーバーロード仮説
  2. モチベーションに基づく人格の4類型
  3. 笑い、怒り、感動の本質

この3つは素晴らしすぎる。美しい話なのである。

まず、1については、欧米的な、あるいはTED的な、アジェンダ設定文化というものに少々食傷気味な私にとっては、とても腑に落ちる話であった。
2については、おそらく岡田斗司夫ファンの周りでは有名だと思う理論なので、ここでは触れない。
3については、あえて、すこし話を拡張したい。

もともとオタキングの提唱しているのは、「笑い」=「攻撃性の代償行為」である。

ここで少し前置きとして、もともと仏教的な人間観が基底にあることを押さえておこう。「私」とは、西洋的な自立した個人としての「人間」ではない。私とは、連続的な入力情報に対して、ひとつの単位として対応するためテンプレを集めた不完全なまとまりである。

このようなモチーフは、たとえば、オタキングが政治的な問題を語る際にも垣間見える。「私のなかで1割は〇〇を支持する、別の1割は△△を支持する」といった具合だ。これはオーバーロード仮説とも通底している。

さて人間は、特定の強い信号に対して、それをそのまま受け止めて記憶に保存したり、出力側に発露(行動)するのではなく、変換するパターンをいくつか身に備えてきた。そのひとつが「笑い」である。

笑いは、攻撃性を出すとき、あるいは攻撃性を受けたとき、それを別の感情に変換したものであるというのがオタキングの主張である。たとえば攻撃を受けたとき、攻撃を受けた人を見たとき、攻撃をしたいとき、などの状況で、「攻撃」という本来厄介で、精神的にも負荷の強い情報を、もっとソフトな感情に置き換えるのである。

それゆえ「地獄には爆笑があふれ、天国には微笑しかない」のである。

オタキングは、こうした「本質論」について、しばしばハインラインのSF小説を出典にしているところが、非常に面白い。そもそも、オタキングはガイナックスの初期の時期に「感動」の本質について探求していた時期があり、そこからさまざまな発見をしたという。

では、その感動とは何か。

オタキングによれば、感動は、罪悪感であるという。人間は罪悪感を感じたときに、それを背負うのではなく、「感動」という感情に変換させることによって、「私」としての精神の一体性を保つという。そして、そこに物語としての整合性が生まれるのだ。

これもまた面白い主張だ。だが、私は少しここで、自説を入れたい。それがこちら。

  • 笑いとは、攻撃的な感情を変換させたものである。
  • 怒りとは、無力さの感情を変換させたものである。
  • 感動とは、犠牲に対する感情を変換させたものである。

感動のところだけ、私は「罪悪感」ではなく「犠牲」と置き換えた。オタキングの言う「感動」は、もちろん罪悪感を含むが、「犠牲」のほうがもう少しコアをついていると思う。いかがだろうか。

オタキングへのリスペクトを込めて、少し書いてみた。




2024-09-23

書評:統計学の数理


統計学の数理
桜井基晴
プレアデス出版 (2022)


これは神本かもしれない。
最近ようやく読了した(演習問題はまだ)ので、軽くメモ。


統計学を学ぶとき、数学的な側面にどの程度こだわるかという問題がある。

統計学では、奥深いテーマを考えれば考えるほど数学的な議論がメインになってくるのだが、誰しもが数学的な素養があるわけでもないし、時間をかけれるわけでもないし、そもそも好きかどうかも分からない。

その上で、「統計学を、数学側の視点からもやってみようか」と思ったとき、独学者が一歩踏み出すための指針となる本が意外とない。私の知る限りでは「統計学のための数学入門30講」(永田靖、朝倉書店)と「大学の統計学」(石井俊全、技術評論社)あたりであろうか。マセマの「統計学・演習」は出発点としては極めて秀逸である。


本書は数学的な理論がメインで、実践的な内容は書かれていない。数学のみを語るという意味では、「統計学のための数学入門30講」のテイストが最も近いが、同書はやや「数学の復習」という体裁が強く、それでいて数学をほとんど知らないか忘れている人が取り組むような流れになっていない。情報はあるのだが、味気がない、いわゆる「まとめ本」なのである。登山で例えれば、装備の説明と、各山麗の攻略法の概要を載せているような流れである。

だが、統計学で使われる重要な諸定理を片っ端からクリアしていこうとすると、この3つの書籍のいずれも、やや物足りない。実際に、自分の手で計算をして、定理を導出できないものか、という思いを抱く。

その点で言えば、本書は数式の行間をひたすら追っていくスタイルである。山登りをするときに、実際のルートファインディングして踏破することが目的の人にとっては、こちらの方が実体験を与えてくれるので都合が良い。特に後半は高度感が増してくるので、次のレベルを目指すための下準備としても良い。

私は高校2年生ぐらいから数学はほぼ何もやってこなかったタイプである。「ああ、こうやって歩くんだな」ということを、数式で一行一行踏破していくことができるのは、非常にタフでやりがいがあった。そこには、ルート攻略をイメージしながら、ステップを踏んでいくという、フィジカルな経験にも似た楽しさがあった。


本書は、統計学の数学という、本格的な山脈の歩き方を教えてくれるナビだが、大学初級程度の数学的道具をもっていることは前提となっている。具体的に言えば、微積分と線形代数の基本定理、マクローリン(テイラー)展開、ランダウ記号(余剰項)の処理、重積分、2変量の変数変換、ヤコビアンの処理あたりである(特性関数、ベイズ統計やルベーク積分は使われていない)。完璧に使いこなせることはないとしても、これらの道具の扱い方を多少は心得ておかなければ、前にも後ろにも進めなくなるだろう。そのあたりは読者がどうにかしなければならない。

ただ、これは数学素人の私見だが、統計学で使われる数学は、それなりに高度な理論を使うのが、それぞれの理論分野においては、とてもシンプルで見本のようなセッティングが使われるのである(例外がなく、条件設定が少ない多いと言えばいいのか)。もちろん、他書や、ネット上で解法を解説している情報を見ていると、そんな証明方法は思いつかないなぁと思うようなパズルっぽいことがなされていることもあるのだが、少なくともこの本は普通に踏破できるような道筋で、どこまで行けるかを示していると思う。その点、誰かに教わるのでもなく、ただ勝手にやっているだけの(私のような)完全な独学者でもどうにかなる。


関係ないが、さいきん山登りにとても興味がある。自分の足で険しい山道をすすみ、途中さまざまな中間ポイントを経由しながら、自分の道具を再点検し、ルートを確認して、さらに先に進む…、ということが似ているのかもしれないな。



2024-02-08

Yamaha GC42S

クラシックギター(Yamaha GC42S)を買ってしまいました。

素晴らしい音で、操作性も良い。心が洗われそうです。

このところクラシックギターの練習も順調で、自分なりに新たなフェーズに入ってきた気がします。

おそらく転機のひとつになったのはバッハのBWV998(プレリュード、フーガ、アレグロ)に取り組んだ去年頃で、運指に対する見方、右手の効率的な動かし方など含めて大きく変わった気がします。そのあと、チューニングで6-Dを使う曲を中心にいろいろと楽しみながら、ふと気分転換のつもりでBWV1003(フーガ)に取り組みなおすことにしました。この曲は6年ぐらい前に最初に練習した曲だったのですが、当時は暗譜と弾きこなすことだけを考えていたので、いまにして思えばボロボロでした。「弾ければいいや」ぐらいの軽い気持ちだったのですが、自分にとっての理想はタチアナ・リツコヴァみたいなスタイルです。(彼女のBWV1003は世界一。タチアナしか勝たん。)彼女のスタイルは、優雅で洗練されており、システマチックな抒情性みたいな本質が出ていると思う。譜面の解釈だけであのようになるのか、考えてみると奥が深いのです。アレンジもかなり大胆なことは間違いないのだけど、調べられる範囲では特に情報がありません。彼女の演奏の素晴らしさがどうしても気になっていて、BWV1003は、いわば永遠の課題となっていたのでした。

2024年になって偶然、雑誌「現代ギター」のウェブショップでバルエコ編のBWV1003の譜面を発見。何の気なしにバルエコ版を引いて見るとなかなか目から鱗なことが多くて面白いのです。これで思い立って、自分の過去のBWV1003を捨てて、完全に新しい気持ちで練習してみることにしたのでした。過去と同じテンポやアゴーギクで弾いても違いがあります(自分比)。すこし思っていた世界に近づいたなか、と、そんな最近です。

それ以外にも、コロナで世間が揺れた2020~2023あたりに触れた数々のマイ・スペシャルな曲たちがありますが、それらは触れないでおくとしましょう。

最近は、将来の目標についてすこし強気になりたいと思いました。

ひとまず今の練習課題曲たちが落ち着いたら、いよいよBWV1004(シャコンヌ)に取り組んでみようかと思います。多くのクラギ愛好家たちの目標曲のひとつですね。私もそろそろ着手したくなってきました。そういう心境の変化もあって、節目になりそうな気がしています。

それだけではありません。アンドリュー・ヨークのサンバーストとムーンタンの譜面もゲットして、眺め始めています。現代曲、特殊奏法を大胆に活用、ポップさもあるという3点つの条件でかんがえるならば、最高峰だと思います。もともと、この高度な2曲は私には縁のないものだと思っていましたが、長期的な目標にしてもいいんじゃないかと思い始めています。まだ譜面上の情報の基本的なチェックのみで、リズムの取り方とか指使い(あとは強烈な特殊奏法!)などを細かくチェックしていく本当の作業は、まだまだ先になると思いますが、意外とがんばれそうな気もしてきました。チューニングにしても、6-D、1-Dというもので、ほんの少し前であれば手を出したくなかったですが、6-Dぐらい普段からよく使っていますから、あと1弦も追加でチューニングを変えればいいだけなので、考えてみればやれそうな気がします。

ということでクラギライフ、順調です。