ありがとう...。
改めて思い返してみれば、平地でビッグギアを踏むときの独特のウイップ感がBMCにはあった。逆にしっかりとヒルクライムしたいときは、プリンスのほうがラクだった。
私は再びロードバイクを再開する日は来るだろうか、と手のひらを見ながら問いかける。
ありがとう...。
改めて思い返してみれば、平地でビッグギアを踏むときの独特のウイップ感がBMCにはあった。逆にしっかりとヒルクライムしたいときは、プリンスのほうがラクだった。
私は再びロードバイクを再開する日は来るだろうか、と手のひらを見ながら問いかける。
何を隠そう、私にとってNo. 1インフルエンサーは、岡田斗司夫(さん)だ。
私はドワンゴやニコニコ動画的な文化は一切経験していないので、彼がそのあたりをメインフィールドとしていた時期は知らないが、それでも結構昔から彼のことを知っていた自信はある。
ホリエモンでも、ひろゆきでも、成田祐輔でもない。
オタキングこそ、いまだに私淑してやまない人物である。
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そういえば、成田祐輔はブレイクした時期、すこし興味をひかれた。
彼の発言ではなく、スタイルにである。
成田祐輔について一言、私の印象を書いておきたい(他にこのように語られていることを見たことがないので)。
世の中には中二病という言葉があるが、それ以外にも大学院の2年目ぐらいに陥りやすい院二病というものもあると思っている。マイナーな論文でも誇大妄想的に評価したり、本質重視の独善的な論争スタイルをとり、ゼミ臭がプンプンする課題設定をするような季節病だ。
はじめて彼を見たころ、成田氏には、ものすごい院二病を感じた。ああ懐かしい、院二時代の万能感、あとで見るとこっ恥ずかしいこの感じ!である。
のちに、それは彼の独特のユーモアの一部であり、相手に合わせてあえてオフビート、あるいは斜めの角度から言って、アテンションを引くような、あくまでもスタイルなのだと分かった。ここで重要なことであるが、真に特徴的なのは、彼の発言の内容自体よりも、スタイルである。
しかも、ある種の天才的なスタイルの編集人である。実際の話の内容は、データを見て正直になろうよ、意味ないことに意味あるフリをするのはやめようよ、という常識的なことである。あくまで個人的にであるが、ああゆう世を捨てた達観者を気取るスタイルに「インフルエンス」されたくない自分に気が付いてから、成田氏の動画は見ないようにしている。
ここで気が付いたのであるが、成田氏は、あの(全盛期の)浅田彰にそっくりだ。
私は浅田彰は遅れてきて読んだのでリアルタイムではないが、なんとも似ているではないだろうか。余談でした。
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本題のオタキングである。彼が提唱した理論(本質論)のなかで、もっとも素晴らしいものが3つあるので、ここで紹介したい。(私が知らないだけで、もっとあるかもしれない。)
この3つは素晴らしすぎる。美しい話なのである。
まず、1については、欧米的な、あるいはTED的な、アジェンダ設定文化というものに少々食傷気味な私にとっては、とても腑に落ちる話であった。
2については、おそらく岡田斗司夫ファンの周りでは有名だと思う理論なので、ここでは触れない。
3については、あえて、すこし話を拡張したい。
もともとオタキングの提唱しているのは、「笑い」=「攻撃性の代償行為」である。
ここで少し前置きとして、もともと仏教的な人間観が基底にあることを押さえておこう。「私」とは、西洋的な自立した個人としての「人間」ではない。私とは、連続的な入力情報に対して、ひとつの単位として対応するためテンプレを集めた不完全なまとまりである。
このようなモチーフは、たとえば、オタキングが政治的な問題を語る際にも垣間見える。「私のなかで1割は〇〇を支持する、別の1割は△△を支持する」といった具合だ。これはオーバーロード仮説とも通底している。
さて人間は、特定の強い信号に対して、それをそのまま受け止めて記憶に保存したり、出力側に発露(行動)するのではなく、変換するパターンをいくつか身に備えてきた。そのひとつが「笑い」である。
笑いは、攻撃性を出すとき、あるいは攻撃性を受けたとき、それを別の感情に変換したものであるというのがオタキングの主張である。たとえば攻撃を受けたとき、攻撃を受けた人を見たとき、攻撃をしたいとき、などの状況で、「攻撃」という本来厄介で、精神的にも負荷の強い情報を、もっとソフトな感情に置き換えるのである。
それゆえ「地獄には爆笑があふれ、天国には微笑しかない」のである。
オタキングは、こうした「本質論」について、しばしばハインラインのSF小説を出典にしているところが、非常に面白い。そもそも、オタキングはガイナックスの初期の時期に「感動」の本質について探求していた時期があり、そこからさまざまな発見をしたという。
では、その感動とは何か。
オタキングによれば、感動は、罪悪感であるという。人間は罪悪感を感じたときに、それを背負うのではなく、「感動」という感情に変換させることによって、「私」としての精神の一体性を保つという。そして、そこに物語としての整合性が生まれるのだ。
これもまた面白い主張だ。だが、私は少しここで、自説を入れたい。それがこちら。
感動のところだけ、私は「罪悪感」ではなく「犠牲」と置き換えた。オタキングの言う「感動」は、もちろん罪悪感を含むが、「犠牲」のほうがもう少しコアをついていると思う。いかがだろうか。
オタキングへのリスペクトを込めて、少し書いてみた。
これは神本かもしれない。
最近ようやく読了した(演習問題はまだ)ので、軽くメモ。
統計学を学ぶとき、数学的な側面にどの程度こだわるかという問題がある。
統計学では、奥深いテーマを考えれば考えるほど数学的な議論がメインになってくるのだが、誰しもが数学的な素養があるわけでもないし、時間をかけれるわけでもないし、そもそも好きかどうかも分からない。
その上で、「統計学を、数学側の視点からもやってみようか」と思ったとき、独学者が一歩踏み出すための指針となる本が意外とない。私の知る限りでは「統計学のための数学入門30講」(永田靖、朝倉書店)と「大学の統計学」(石井俊全、技術評論社)あたりであろうか。マセマの「統計学・演習」は出発点としては極めて秀逸である。
本書は数学的な理論がメインで、実践的な内容は書かれていない。数学のみを語るという意味では、「統計学のための数学入門30講」のテイストが最も近いが、同書はやや「数学の復習」という体裁が強く、それでいて数学をほとんど知らないか忘れている人が取り組むような流れになっていない。情報はあるのだが、味気がない、いわゆる「まとめ本」なのである。登山で例えれば、装備の説明と、各山麗の攻略法の概要を載せているような流れである。
だが、統計学で使われる重要な諸定理を片っ端からクリアしていこうとすると、この3つの書籍のいずれも、やや物足りない。実際に、自分の手で計算をして、定理を導出できないものか、という思いを抱く。
その点で言えば、本書は数式の行間をひたすら追っていくスタイルである。山登りをするときに、実際のルートファインディングして踏破することが目的の人にとっては、こちらの方が実体験を与えてくれるので都合が良い。特に後半は高度感が増してくるので、次のレベルを目指すための下準備としても良い。
私は高校2年生ぐらいから数学はほぼ何もやってこなかったタイプである。「ああ、こうやって歩くんだな」ということを、数式で一行一行踏破していくことができるのは、非常にタフでやりがいがあった。そこには、ルート攻略をイメージしながら、ステップを踏んでいくという、フィジカルな経験にも似た楽しさがあった。
本書は、統計学の数学という、本格的な山脈の歩き方を教えてくれるナビだが、大学初級程度の数学的道具をもっていることは前提となっている。具体的に言えば、微積分と線形代数の基本定理、マクローリン(テイラー)展開、ランダウ記号(余剰項)の処理、重積分、2変量の変数変換、ヤコビアンの処理あたりである(特性関数、ベイズ統計やルベーク積分は使われていない)。完璧に使いこなせることはないとしても、これらの道具の扱い方を多少は心得ておかなければ、前にも後ろにも進めなくなるだろう。そのあたりは読者がどうにかしなければならない。
ただ、これは数学素人の私見だが、統計学で使われる数学は、それなりに高度な理論を使うのが、それぞれの理論分野においては、とてもシンプルで見本のようなセッティングが使われるのである(例外がなく、条件設定が少ない多いと言えばいいのか)。もちろん、他書や、ネット上で解法を解説している情報を見ていると、そんな証明方法は思いつかないなぁと思うようなパズルっぽいことがなされていることもあるのだが、少なくともこの本は普通に踏破できるような道筋で、どこまで行けるかを示していると思う。その点、誰かに教わるのでもなく、ただ勝手にやっているだけの(私のような)完全な独学者でもどうにかなる。
関係ないが、さいきん山登りにとても興味がある。自分の足で険しい山道をすすみ、途中さまざまな中間ポイントを経由しながら、自分の道具を再点検し、ルートを確認して、さらに先に進む…、ということが似ているのかもしれないな。